Archive for 9 月, 2009

下手な泳ぎなりに

in Diary
by Ko | 9 月 30th, 2009 

700m分、今日は遊泳した。いやー疲れた。しかし、時間に余裕があるときはいろいろと挑戦できて楽しい。走るのよりも泳ぐほうが好きになるかもしれない。(とはいっても不格好なクロールしかできない。平泳ぎとかどうやんですか?って感じ)
それにしてもこんなにプールにはまるとは思わなかったなあ。

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ふうー

in Diary
by Ko | 9 月 30th, 2009 

くらくらするのはコーヒーの飲み過ぎかもしれない。午前中に起きて朝食を食べ、コーヒーを飲みながらラトヴィア語の宿題をやっていた。やっと一段落した。
今日はこのあと本を読んだり、ロシア語の勉強をしたりができればいいのだが、そんなことをどこでやろうかと迷ってしまう。本を持ち歩くには外が雨降っているし、だからといって家の中にいるのは気分がふさいでしまってよろしくない。
っていうかこの落ち着きのなさはお腹がすいているのかもしれない。昼ご飯に食べたい物がとくに出てこないというのは結構困ることである。ちょっと早めにでかけて街でも出歩こうか。

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教養とは何だ?

in Diary
by Ko | 9 月 30th, 2009 

教養って英語でなんて言うのかなとふと思い、辞書を引いてみたところ、ずばりそのまま「教養」というものは出てこない。
cultureは「教養」でありながら「文化」であるし、educationは「教養」でありながら「教育」である。そしてsophisticationというものはかなり大仰な雰囲気がある。「教養」とは「文化」や「教育」から切り離した形で名詞そのままでは使えず、形容詞的な意味合いが強いのではないだろうか。教養学部はliberal arts collegeだ。ここでのliberalは形容詞である。何かしらの言葉と結びついて「教養の」という考え方が生まれるのだろう。「教養」単独で使うとわけがわからなくなる。
「教養のなさ」という表現がある。別にこれはcultureがないだとか、educationがないだとかいう意味ではないような気がする。日本に住んでいながらcultureがないというのはおかしい。「文化的素養のなさ」という意味ではありかもしれないが。また、「教養のない大学生」という表現を考えるときに、大学生なのにeducationがないというのはどういうことなのか。そんな大学生は存在意義を疑う。働かない労働者・勉強しない学生・授業をしない学生・子供を育てない親などのように矛盾したことばかりだ。
はて、これらは本当に矛盾しているのだろうか。矛盾しているということは、おかしいということである。おかしいということは、存在しているとまずいのである。ところが、働かない労働者・勉強しない学生・授業をしない学生・子供を育てない親というものは存在している。矛盾しているのに存在しているのである。これは不思議である。「存在しているとおかしいものが存在している」とは逆説的ではないだろうか。
ということは、「教養がない」は逆説的な表現である。現代の人間は、文化や教育と関わらずに生きてこられるわけがない。よって教養がない人間はいない。しかしながら、実際に教養がない人間は存在する。そして一番わかりやすい例は「勉強しない大学生」である。
そうなると、そもそも教養とは何なのかということになる。「勉強しない大学生」が「教養のない人」をさすのであれば、「勉強する大学生」が「教養のある人」になるわけであり、従って「勉強する=教養」ということになる。このとき、「教養学部で勉強していました」という表現は、「   A 」ということになる。
設問:Aに入る言葉を文脈をよく考えた上で考えなさい。
いや、これは冗談で。 「教養学部で勉強していました」という表現は、「勉強学部で勉強していました 」ということになるのだから、訳が分からなくなってきた。世の中は、「教養」という言葉を簡単に使い過ぎではないだろうか。それとも実際に「教養」つまり「文化」や「教育」がないがしろにされているから「教養」をつけよと言われるのだろうか。
悲しいことに、文化への興味や、教育による知識というものは、身についていないのかもしれない。

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